卵子提供体験談2005.01体験談

九州・沖縄地方のN様からのメッセージ「夢」

結婚が早かった私達夫婦にとって、子供が出来る事は、当初「いつでもイイ。」という感じでしかなかった。
私自身、仕事を始めたばかりで、覚える事だらけの日々に追われていたし、夫婦二人だけの生活というのも、経験してしてみたかったのである。
しかし、まさか二人だけの生活が十数年も続くとは、この時は思いもしませんでした。

結婚数年後・・・。「そろそろ子供が欲しい。」と感じるようになっていた。会う人達の皆から、「子供はまだかい??」と聞かれ、耳にタコが出来ていた。
親戚・知人・恩師・仕事先・妻の実家などなど、数えだしたらキリがない。
その度に、「こうのとりが来なくってね。」と言って笑っていたが、さすがに私も妻も、そろそろ・・・・と考えていた。

自分達に何か問題があるとは、まったく考えなかったが、ある時妻が産婦人科に行ってみると、ホルモンバランスが良くない為、妊娠を望むなら通院して、排卵を薬で助けるというのだ。
えっ!不妊症??この時から長く大変な不妊治療がスタートした。
妊娠は望んではいたが、それよりも妻の女性としての身体に、異常があることが心配で、二度目の通院時に私も同行し、先生に説明を受け、節にお願いしてきた。

一ヶ月に一度の月経周期に合わせての治療は、本当に気が長い話だ。不妊治療が大変なのは、この「長期戦」であるがゆえの事だろう。
私がそう思うのだから、当事者の妻や、不妊治療を行っている多くの女性達は、もっと感じているだろうと思う。
長く掛かるだけに、治療費も当然跳ね上がる。
妻は病院に行く時に、私に「ゴメンね。」と言って出掛ける。
今更ながらに、この時の妻の事を想うと涙が出る。
私は何度となく妻に、「ゴメンなんて言う事はない。」って言いました。
1億2千万人の日本人の、約半分の女性の中に、何人の方々が不妊で、こうやってツライ思いをしている人がいるかと、考えたりもした。

不妊治療開始後、数年経っても、一向に変わらぬ治療と、その辛い現実に対して、妻も私も悩み考えた末に、都市部の大病院での治療に切り替える事にした。通う事も含め、時間を膨大に費やす事は承知していたが、今想うとこの頃は、何でもいいから「一歩前」に進みたかったのである。
しかし、残念な事に、大病院の大先生からは「妊娠不可能」という事実を、知らされる事になった。

「子供だけが人生じゃないよ。」
「夫婦二人で、死ぬまで仲良くやっていこう。」
「養育費が無い分で、海外旅行にでも行ってみようよ。」
などなど・・・・・・。
落ち込む妻に対して、かけた言葉は数え切れない。
この頃私は、何度妻の「ゴメンなさい。」を聞いただろうか。
それは妻のご両親も同じで、私に対し「負い目」を負っているかのような言葉や姿勢にも、何とも言えない想いをしていた。

私が妻を生涯の伴侶に選んだのは、子孫繁栄や子供を得るためだけでは無い訳で、残念な結果だったとはいえ、それが原因で私達夫婦の間に、溝が出来るような事だけは、避けたかった。

それからの数年間は、(自分には一生子供が出来ない)という変な確信的なものがあった。よって、夫婦仲はより一層イイ形になっていたようにも思える。

インターネット環境が我が家にも整った頃、妻から初めて「卵子提供」という言葉を聞き驚いた。
それは、卵子提供という行為そのものに対して、驚いたのではなく、妻が今でも「子供が欲しい」と思い続けていた事に驚いたのだ。
完全に私が諦めていたのに対し、妻は自分の心の中でだけなんとかしたいと、模索していたのであろう。
その妻の気持ちに、気付いてあげられなかった自分を少し恥じながらも、この時は「本当にそんな事が出来るんだろうか?」と思っていた。

IFCのホームページを閲覧したのは、その翌日である。
我々夫婦が望む「夢の続き」が、そのホームページにはあった。
二人で、食い入るように画面を覗き込んだことを、はっきり覚えている。
「夢の続き」を見つけたとはいえ、約500万円という多額な予算、そして何と言っても、最低2回の渡米・・・・。
二人の歓喜の中にも、私の不安は隠せなかった。
すぐにメールを送り、問い合わせと資料請求をした。

郵送していただいた資料を、何度も何度も読み返し、本当に挑戦できるプログラムなのか、心配していた所に、サンフランシスコの川田社長から、直々に電話をいただいた。
私達の不安を、すでに社長は知っていたかのように、説明をしていただき、今思えばこの電話で、プログラム挑戦の決心がついたといっても過言ではない。
東京事務所に出向いての、更に詳しい説明を聞きにいく頃は、絶対に子供はできるんだ!と、信じていた。

このプログラムを進める上で、一番話し合ったのが、お互いの両親に対して、話すかどうかである。
渡米に対して考えれば、秘密にしておく事は、100%不可能で、1回ならまだしも、最低でも2回の渡米が必要な、このプログラムを進めるには、話をした上で承知して頂き、協力をしてもらわなければならない。そこで、お互いの両親だけに伝える事にした。
私達二人の心配をよそに、お互いの両親同伴の席で話をすると、
「そうか・・・。二人で相談して決めたんなら、反対する理由はない。出来る限りの協力をするから、頑張ってみろ。」
二人の父親からそう言われて、嬉しさのあまり、妻はまた涙していた。
この時の両親との約束は、「結果がどうであれ、今まで通り夫婦仲がイイ二人でいて欲しい」というものだった。感謝している。言葉では伝えられない程・・・。

お互いの両親の協力を得られた上で、希望に満ちて第一回目の渡米を果たした。
病院(クリニック)では、妻のメディカルチェックがメインで、IFCのスタッフの皆様からは、到着から出発まで本当に親切にお世話になりました。関わっている全ての人達が、私達の為に、私達夫婦の「夢」の為に、努力してくれている事を考えると、頭が下がる想いだ。

ハーバート先生から、「大丈夫、きっと上手くいきますよ。」と緊張している私達に、ジョーク交じりに話して頂き、本当の意味で「よし!やれるぞ。本当に子供が出来るんだ。」と思ったのはこの時である。

卵子ドナーの選択をした中で、感じたのは、我々のような子供が出来なくて、淋しく困っている者に対して、貴重な卵子を提供してくれる、このドナーの方々への、やはり感謝の気持ちである。
個人主義が強い現代において、なかなか出来る事ではないと思う。このような、手を差し伸べて頂けなければ、我々の夢はその場で終焉となってしまう。
それは、IFCの存在そのものにもいえる事で、川田社長以下スタッフの皆様にも、最敬礼の気持ちである。

第2回目の渡米は、受精胚移植には至らず、ドナーを代えて迎えた第3回目の渡米では、見事な受精卵が出来た。
しかも、胚移植した最高級グレードの2個以外にも、11個もの凍結受精卵が出来たのである。
夢にまで見た嬉しい事実に、私達の期待は更に膨らみこの胚移植が成功し、上手く着床すれば妊娠成立となる事を信じてやまなかった。

これまで頑張った投薬や自己注射の事など、思い出されるがこの頃よく思った事がある。それは以前やっていた不妊治療も含めての事だが、子供を授かるという事は、夫婦の共同事項であるという事だ。今更ながらのようでもあるが、特に不妊治療の場合、とかく女性のみに負担が強いられがちである。
確かに、治療という病理学観点で見れば、女性の人体に関わる事が圧倒的に多い。だからこそ、心理的なケアや励まし、協力はパートナーである、男性の大きな役割だと思うのだ。
当事者の女性は、不安も多く、常に「大丈夫かな~。」という気持ちに揺れている。私も、妻が何よりも優しい励ましを欲している事を、忘れてはならないと感じていた。

帰国してから、病院での妊娠判定の前に、市販の妊娠判定キットで、恐る恐る確認したが、判定は陰性・・・・。
ここまで上手くいっていただけに、残念な気持ちも大きかったが、妻はまったく挫けなかった。「まだ、クリニックには11個も受精卵があるんだから、またチャレンジしようよ。」
このプログラムを開始して、この時点で2年と1ヶ月。
心身共に強くなった妻に対し、母親になる気持ちの強さを更に感じた。

新鮮な受精卵での妊娠不成立に対し、凍結受精卵を使用する通算4回目の渡米での胚移植は、不安がなかった訳では無い。しかし、前回の不成立はきっと神様が「お前達夫婦が、人の子の親になるのはまだ早い」と判断したのだろうと考えていた。私はクリスチャンではないがそう思う事で、少し楽になれたような気がしたのだ。

渡米も4回目となると慣れたものである。サンフランシスコの町並みもすっかり覚え、バスの路線番号などはすでに暗記していて、どこに行くのも困らない程である。
4回目の渡米は、シスコの町に「ただいま~。」と、そんな気持ちで乗り込んだ。
残った凍結卵も、グレードは最高のものである事を再度説明され、二つの受精卵を胚移植した。

実は前回、私の帰国が妻とは別々であったのだが、私が帰ったその時に、妻がホテルで怖い思いをしたそうだ。強盗にあったとか、そういう事ではなく、オバケの夢を見たようだ。一人の不安と、ちゃんと着床しているかどうかの、心理的なものに、彼女の心が揺れてのだろう。
不成立確認後、「それがよくなかったんだよ。」そう言う妻の姿に、今回は一緒に帰る事を約束した。
これを聞いて、笑う人がいるかも知れないが、どうしても子供が欲しい気持ちで、わらにもすがる思いの、私達に取っては真面目な話である。
少しでも、心配事や不安は、取り除いておきたいのである。

二人揃って帰国し、おかげで怖い想いもしかった妻と、前回同様、妊娠判定キットで調べる日がやってきた。
ドラッグストアで、値段の高い物を選びその判定に望んだ。うっすらと浮かび上がるプラスの模様に、こみ上げる涙を押さえ妻と何度も抱き合って喜んだ。
同居する両親に、「妊娠していました。ありがとうございます。」
そう伝えると、母が大声を上げて泣き出してしまった。
私達夫婦に、子供を抱かせてあげたい!そう日頃から言っていた母の、抑える事のない喜びように、父も目頭を熱くしていた。
妻の両親の喜びも、大変なものであった。
電話で伝えるその声が、震えていたのは言うまでもない。

その後はお腹の中で順調に育ち、最初にサンフランシスコに問い合わせたあの日から、丸3年。
「夢」であった我が子が誕生した。しかも二人も。
看護士に抱かれた赤ちゃんを、手渡された瞬間は、「パパだよ。」と言うのが精一杯で、溢れ出る涙を止めることは出来なかった。
小さい体から振り絞る大きな泣き声は、今も耳に残っている。

今、育児に追われているが、それこそ待ちに待ったこの瞬間を家族全員で楽しんでいる。
おむつ・おっぱい・ミルク・お風呂・着替え・・・・・・。
すっかり二人の子供中心で、生活が進んでいるが、毎日がこんなに満たされている事は、本当に幸せであり、数え切れないほど大勢の方々から、たくさんの
「 お め で と う ! 」
を頂いた事は、生きている事と、子供を授かった事への感謝の一念である。

今回、IFCを通じ、手に有り余る程の幸せを頂いた事に、どうやって感謝の意を表していいか、困惑してしまう。
私が責任ある親になる事で、この子供達を絶対に幸せにしてあげる事で、その感謝の想いを持ち続けていく事で、少しはお返しが出来るのではなかろうか。

今は、ただただ、この一言を、IFC・川田社長とスタッフの皆さん、クリニックのハーバート先生とスタッフの皆さんに、伝えたい。

「夢をありがとう!」

追伸:
この体験談を読んでいる、不妊に悩む方々へ
絶対に諦めないで欲しい。
皆さんにも夢の続きが必ず来ると思います。