卵子提供体験談2005.09体験談

「難病を乗り越えて授かった新しい命」九州・沖縄地方のM様

「私、もしかしたら子供を産めないかもしれないの…。もしも結婚を考えているのならば私じゃなくて他の人として下さい…。」

4年前の秋、当時私は付き合い始めて間もない彼(現:主人)に思い切って告白しました。なぜなら、その前の年に私は、10代の頃から患っていた難病が悪化し、余命宣告されたのを期に大量の抗がん剤を使用する治療に踏み切ったのでした。数ヶ月間で病気を克服できたのと引き換えに、抗がん剤の影響により生殖機能(卵巣)が衰えていることが自覚症状から薄々感じていました。当時通っていた婦人科でも、妊娠は難しい可能性が高いといわれていたのでした。しかし、私からの「衝撃告白」を受けた彼は、動揺を見せず「一緒に頑張ればいいじゃないか」と、その夜私にプロポーズしたのでした。

結婚して1年を迎えようとしていた頃、そろそろ子供がほしいという話がどちらからともなくでてきました。里子でも良いから子供を育てたい主人。子供好きの主人をそばでみていて何とかお父さんにしてあげたいと思う私は、再び通っていた大学病院の婦人科を訪ねましたが、私の治療歴をみるだけで、 「この状況では妊娠は難しいが、今は抗がん剤の影響で卵巣機能が低下しているだけであって、もしかしたら数年後、機能が復活する可能性があるかもしれない」という曖昧な返事。私たちは、「…かもしれない」という言葉を信じ、僅かな望みをもっていました。

何とか不妊治療をしてもらえないかとインターネットで探しては、通える範囲の病院へいくつも足を運びましだが答えはどこも同じ。不妊治療すらさせてもらえないことに絶望すら感じていました。結果はどうであれ、せめて治療だけでもさせてほしい…、すぐに実らなくても、そこから色々な可能性が広がるかもしれない。これが私たち夫婦にとっての何よりの願いだったのです。

毎週治療をさせてもらえる病院を訪ねるのも、精神的にかなり疲れてきたと同時に「私のせいで我が家は子供をもつことが出来ない」「主人をお父さんにしてあげることが出来ない」という負い目が募り、私の精神状態も限界まできていました。会社の誰それさんがおめでただって!TVであの人ができちゃった結婚だって!そんなニュースを耳にする度に、胸が苦しくなることもしばしば …。

主人とは子供がいない人生についても何度も話し合いの時間をもちました。時には自分の焦りや苛立ちを、同じ辛い気持ちでいるであろう主人に、容赦なくぶつけたことも。だって、この気持ちを話せるのは、主人以外誰もいないから…。

そんな時、インターネットで卵子提供による胚移植という方法がこの世に存在することを知りました。資料を取り寄せ主人にみせると、こんな方法があるのかと驚きながらも、私たち20代の2人にとって費用面ではかなり無理があると、その場は諦めたのでした。
そして私たちは未だ不妊治療さえ受け入れてもらえる病院がない事に納得がいかず、それでもまた新しい病院へ足を運ぶ日が続きました。

もう、これで終わりにしよう・・・と心に決めていた最後の病院での帰り道、悲しくて涙を流しながらも、卵子提供への一歩を踏み出す決心ができたのでした。

それからというものの、資料だけではわからないことだらけの私は川田さんへ頻繁にメールを送りました。質問したことには全て丁寧に回答していただき、また私の相談事や悩み等を川田さんへ何でもメールし、私にとってとても気持ちが楽になったことを鮮明に覚えています。

二人の意思が固まったところで、費用の面で援助が必要だった為、お互いの両親や兄弟へ相談をしました。予想通り大反対でした。
特に私の親は、難病を克服できただけでも十分なのに、それ以上の事を求めるのかと…。
また、いくら主人の子であっても私の遺伝子を受け継がないで生まれてくる子供を愛せるのか?
産んだ後に後悔しないか?
決して丈夫とは言えない体で妊娠できたとしても、無事にお腹のなかで胎児が育つのか?
子育ては自分たちが思っている以上に大変なこと。
子供は授かりものなのだから、授からなければ違う生き方を考えられないのか…等など身内だからこそ思うであろう厳しい意見を沢山浴びました。

「私たちは間違った選択をしているのであろうか?」と、随分悩み考えました。
が、誰に何を言われようとも、私たち二人がここまで話し合って決心した気持ちは、そう簡単に曲げるわけにはいかないし、我が子をこの腕の中で抱いてみせる!という強い意志があったので踏み切ることにしました。

海外旅行は何度も体験したことがあり、長時間のフライトには慣れていたものの、IFCという会社がどんな雰囲気の会社なのか(事前にオフィスやクリニックの様子が映っているビデオを拝見してはいましたが…)スタッフの方々はどんな方たちなのかという不安、そして川田さんにもうすぐ逢えるというドキドキで、とても緊張していました。が、空港につくやいなや、IFCのスタッフの方が笑顔で私たちの到着を待っていてくださり、オフィスまでの車内で気さくに話し掛けていただいたことにより、とても安心しました。

一回目の渡米では、ハーバート先生にお逢いし楽しい冗談を交えながら、丁寧に診察していただきました。とてもフレンドリーで前向きな意見を私たち夫婦に話していただき、自信がついたのでした。カウンセラーの和実・ハートさんとの面談の時も、「あなたなら大丈夫よ!楽しみね」と、まるでもう妊娠が成立したかのような将来の話をして下さり、元気がでました。

ドナー選択時も沢山の詳しい資料をみせていただき、ほぼ即決できました。
そして二回目の渡米に向けて、薬の服用や注射がはじまりました。
ダンボール箱いっぱいに注射針や薬品が送られてきたときは、あまりの量に尻込みしそうになりながらも、私は痛みに弱い上、自分で打つ勇気がない為、注射だけは毎晩主人にお願いしました。主人も辛い思いを私だけにさせるわけにはいかないと、快く引き受けてくれました。

注射は、はじめの数回は緊張し主人にGOサインを出すまでに随分時間がかかりましたが、回数を重ねるうちに打たれる私も打つ主人も不思議と慣れてしまいました。それに子供を授かれるのならば、注射の痛みや恐怖なんてたいしたことではありませんでした。

二回目の渡米は「待ちにまった渡米の日!」という感じで私は楽しみで仕方ありませんでした。
それは、一回目の渡米の時にサンフランシスコの街の様子もわかったし、IFCの方々にも安心して身を委ねることができたので怖いものが一つもなかったからです。
そして何より心の支えになったのが、はじめは反対していた私の妹が、「少し気が早いけれどお守りに持っていって」と渡してくれた腹帯。これをトランクに忍ばせ出発したのでした。

さすがに胚移植の朝は緊張しましたが、ハーバート先生が受精卵を私の子宮へ移植する直前に「Are you ready to become Mommy ? (ママになる準備はいいかい?)」と声をかけてくださったのが印象的です。
そう、私はこの瞬間からママになれるんだ!と嬉しくて仕方ありませんでした。今までこんな前向きなことを言ってくれた日本のお医者さんは誰ひとりとしていなかったから…。

日本に帰国後、妊娠が現実のものとなったとき、ようやくスタート地点に立てた気がしました。この実った小さな小さな命を最後まで私のお腹の中で育てていくのだと嬉しさと一緒に責任も感じました。主人は、頭の中が真っ白で信じられなかったそうです。
それからは今まで憂鬱な気持ちで産婦人科(婦人科)へ通っていたのが楽しみに変わり、毎回もらえる超音波の写真をいつまでも夫婦揃って眺めていました。

しかし私の通っていた病院は、産婦人科と婦人科が同じ待合室であった為、きっと不妊治療で通われている方々も沢山いらっしゃったと思います。自分もつい先日までは同じ立場であり、その辛さは十分わかるつもりでいましたので、お腹が大きくなるにつれ、目立たないような服を着たり端の席で診察の順番を待っていることもありました。

妊娠期間中はつわりが殆どなく、貴重な時間を1日1日十分楽しむ事が出来ました。
そして…ついにほぼ予定日どおり無事出産!
初めて抱いたとき、小さくてフニャフニャしていたけれども、海を渡ってここまでやってきてくれた小さな命が何だかとっても凜としていて、頼もしげにみえました。
心配していた私たちの両親も今では孫がかわいくて、抱いたら離しません。久しぶりに私たちの周りでは本当の笑顔が満ち溢れています。
周囲の方々にたくさんのおめでとうをいただいた私たち親子3人はとても幸せです。
この幸せを文章で表現するのが、とても難しいのですが…。

これまで、私たちに携わっていただいたIFC川田さんをはじめスタッフの皆様、そしてクリニックのハーバート先生はじめスタッフの皆様、ドナーさん、全ての方に感謝します。
そして、私と一緒に頑張ってきてくれた主人にも心から感謝します。
「夢」や「願い」を叶えるためには、思っているだけでは叶わない。自らが行動しないと掴めないという事を身を持って体験したと思います。
ほんの少しの勇気が、私たちの人生までをも変えてしまうと言っても過言ではありません。
私たちの様に不妊で悩みを抱えてる方々に、絶対に最後まで諦めないでほしいと願ってやみません。

今、隣で可愛い天使ちゃんが、すやすやと寝息をたてて眠っています。パパもママもあなたの寝顔にみとれてばかりで、何も手につかないくらい。
こんなパパとママだけど、これからも宜しくね。
私たちをパパとママにしてくれて、本当にどうもありがとう。